日々の対人関係の中で、相手の立場に立って考えることの難しさを痛感しています。
「他者の立場に立って考える」
これができる人は、意図的に考えようとしなくても自然にできてしまう人なのでしょう。
人を傷つけることを極力言わない
困っている時にそっと手を差し伸べられる
自然にできる人もたくさんいるのに、
私にはとても難しく感じます。
つい最近、嫌悪感を表に出さない人を傷つけてしまい、第三者に指摘されるまで相手の嫌悪に気づかずトラブルに発展してしまうことがありました。
私は一生懸命やったという自己満足で、相手の感情までも肯定的に解釈してしまうことがあります。
今までやってきたことはすべて自己満足だったのではないかと、先述したトラブルで気付かされたのです。
一方的な決めつけ
自分で経験していない物事に対して分かったように口を出てくる人
聞いてもいないことを教えようとしてくる人
頼んでもいないことをやってあげようとする人
周りにいるこんな人に、いつも不快な感情を感じてきました。
ありがた迷惑だと煙たがってきました。
相手の機会を奪い、適切な距離をおけず、
相手のニーズを理解しないために無神経な言動をとる迷惑な人だとずっと思ってきました。
だけど、それは自分だって同じでした。
今まで誰かに「善意の行為」を送り、満たされていたのは自分だけだった。
相手が抱く危機に気づかず、ただの自意識過剰で自分を正当化してきたのではないか。
自分のことも他人のことも見えてなかったのです。
自分のことって自分が一番見えていないのかもしれません。
自分が何を考え、どんな行動をしようとも、
コミュニケーションは相手の反応によって意味づけられます。
「相手がどう思うか」が抜けていては伝える意味がありません。
一般的には、
元気に挨拶をしたり、手伝ってあげたり、気遣いの言葉をかけたり、笑顔で対応したり
そんなことが「善」のように受け取られます。
でも、状況によっては一般的に善とされていることが不快になることもある。
人間だから話したくない時も、挨拶だって避けたい時もあります。
他者の笑顔に気が重くなる気持ちもよく分かる。
自分が他者を受け入れる余裕がないときに相手にも気づいて欲しいと求めているのに、
相手の求めることに気づくことができない。
相手の欲求を見極める以前に、気づこうという意識、立ち止まって考える余裕が欠如しているなあと自分自身に感じるのです。
目の動き、声のトーン、息遣い、表情の変化
相手の気持ちを理解することはできないけれど、ちょっとした変化を意識できる自分になれたら。
発しようとした感情的な言動の適否を、一歩止まって判断できる自分になれたら。
意識すれば簡単なことなのに、
なぜ意識から外れてしまうのか。
そんなことを考えながら、自分に嫌気がさしています。
きっと当たり前にできる人は、無意識下でも他者への敬意、感謝の心を持ち、それが自然な行動として出ているのかもしれません。
私に欠けている部分なのかもしれません。
どうして大事なことをいつも忘れてしまうのだろう。
傲慢な自分に気づかないことが一番怖いです。
落ち込んだ今日この日、これまで自意識過剰の自分を許してくれた全ての人々に心からありがとう。